わが父 忠一(ただかず)と私
こんなしつこい電話は初めてだ!!
反抗期も絶頂を迎えた私は高校3年になっていた
その日はいたって平日だったが自宅にいて当時お付き合いしていたカナちゃんという悪い女と学校をさぼり遊んでいた
プルルルル プルルルル プルルルル
ダイニングにある電話がなっている
私の選択肢は当然「無視」である
まぁなんかの業者かな? と思っていた
プルルルル プルルルル プルルルル プルルルル
相手も粘る、大事な用なのだろうか しかし私は電話に出ない
なぜならオフィシャルには「登校中」だからだ 親に電話があった事を伝えようとしても「何時くらいに電話あったん?」という極めてシンプルな質問にも答える事はできない。
私は無視してカナちゃんと遊んでいた
当然 全裸である
プルルルル プルルルル プルルルル プルルルル
15分くらい鳴り続けた電話の音に私は根負けしたあまりにもうるさいのだ
私は電話にでた当然 全裸である
「はい、まるです」
「あ、やっとでた、ひろきくんか?」
「??? はい、そうですが???」
「お父さん、タダカズ、亡くなったんや」
父との思い出
私の父と母が別居し始めたのはたしか私が幼稚園ぐらいのことだったと思う
突然、家のカギを首にかけられ地域最速の鍵っ子デビューを果たすことになる
父と生活した記憶はほとんど残っていない
ただ、父と母が夜な夜な口論していた思い出はうっすらと覚えている
父はその後大阪で暮らし、日曜に我が家に来て私と遊ぶというスタンスであった
私は父と遊ぶのが大好きだった
阪神タイガースファンだった父と野球したり、よく海釣りにも連れていってもらった、おもちゃもよく買ってくれた 遊園地にも連れて行ってもらった 瀬戸内海のいい感じの島に旅行に行ったり 海やプールも連れて行ってもらった、欲しいゲームソフトを探して何件もゲーム屋を回ってくれたりした
日曜の夜に父が大阪に帰るのを寂しく思った
私の父との思い出はほぼ90%がこの辺りの記憶である
ただ、そんな状態も長くは続かなかった
父が我が家に足を運ぶ回数は徐々に少なくなっていき私が小学校高学年に上がるころにはほとんど顔を出すことはなくなっていた、後から姉にチラッときいたのだがこのころから「養育費」の支払いが滞り始めたらしい、金の切れ目が縁の切れ目というヤツである。
養育費が払えなかったのか払いたくなかったのかはよくわからない
私は休日は友達と遊ぶようになっていたが、やはり父が来ないのは寂しかった
その後父と電話で話したのは10回あるかないかだろうか
阪神淡路大震災の時と私が高校受験に受かった時の事は覚えている
電話越しの父は弱気だった
「もう、、あかんかな、、」「あんまうまくいかへんわ、」
と言っていた記憶がある。悲観的な感じであった
葬儀の日
父の訃報を受けてから部屋に戻り、ただただ無言で震えていた
カナちゃんは悪い女だったがこの時は優しかった
なぜか1時間くらいかけて市街地まで出てカナちゃんと飯を食い、自宅に帰ったのは21時くらいのことだった、まだ母も姉も帰ってきておらず少しほっとした思いをしたのを覚えている、そうこうしてるうちに姉が帰宅し、その後母も帰宅した、私は父の事を二人に伝えた、二人とも涙はなかった、私も涙はない。
私と姉はまだ事実を受け止めることができずにいて、母は「もう他人だし」というスタンスだった。
母はこのことについて叔父となにか電話で相談し、その結果私が一人だけ葬儀に出席することになった。姉が行かなかったのはなぜか、いまでも理由はわからない。
ただ、姉が泣
き崩れると私が困る、そう思ったのも事実だった
翌日、大阪の端の小さな町で父の葬儀は行われた、父の死因は胃癌を苦にしての自殺と父方の叔父は言っていた、私は父が胃癌であることも全く知らなかった
数年ぶりにみる父の姿はあまり昔と変わらず、私が覚えている父の姿そのものだった
父の葬儀は親族7.8人の極めて小規模な密葬で執り行われ、棺の傍らに「釈一念」という簡素な戒名がつけられていた
読経の後火葬を済ませ遺骨を持ちタクシーに乗り込んだときだ
涙があふれてきた。ガマンできなくなってしまった。
私が17歳の頃 1998年の7月の話