まるさんの記憶をたどる旅

子供から最近まで記憶と思いを辿るブログ

中学校の部活でやらされた「罰走」で身に着いた「耐える力」と失った「解決する力」

耐える民族 日本人

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中学校の部活でのこと、炎天下のグラウンドで我々は突然集合をかけられた。顧問から出た言葉は「お前らはたるんでいる」

そのフワッとした根拠に乏しい言いがかりに我々は言葉を失った。

「今から校庭を走れ、いいか、俺が良いというまで走れ。」

我々は炎天下の中校庭を1時間以上、20周以上走らされた。もし、中学生からの生活が全て夢でこの日に帰ることができたなら私はクーデターの陣頭指揮を執る覚悟がある。

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もし、これに逆らったのなら我々はどうなっていたのか?

  • その後呼び出され顧問に長々と説教をされる。
  • 部活をやめさせられる
  • 部活をやめることにより友人との仲が疎遠になる
  • 内申点が下がり進学に影響する。
  • 「反逆者」のレッテルを貼られ他の先生からも疎まれる。

という様々なデメリットを背負う羽目になるわけだ。

とりわけ、友人との人間関係が壊れてしまうとイジメなどの申告な問題につながりかねない。

我々は「これからの楽しい中学生活」という輝かしい時間を人質にされていたのである。

我々のただ唯一の選択肢は「耐える」という一択しか残されてはいなかった。

 

こうして我々は義務教育で「耐える」ことに特化したメンタリティーを育まれた。

このメンタリティーはなかなか凄いもので人生の中で辛く、苦しい時期でもその場をある程度凌ぐことが可能になるのである。

しかし、大きな問題がある。「耐える」という事が得意であるが故に「解決する」という事をおざなりにしてしまうのである。

「解決する」ということよりメンタル的な負荷の大きい「耐える」を多用すると負荷が大きすぎた場合精神の破綻が起きてしまう。そう、自殺である。もしくは精神的には耐えられたものの肉体的限界を超えてしまい死んでしまう「過労死」である。

 

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もし、解決するということを耐えることより優先させることができたのなら

顧問「お前ら、おれがいいというまで走れ」

生徒「先生は私達の何がいけないと思うんですか?」

顧問「移動するときダラダラ歩いているし、練習が始まる時も喋っている。これはおまえらがたるんでいる証拠だ」

生徒「我々は炎天下の練習を連日続けているせいで、肉体的な疲労がかなりあります。練習が終わっても塾に行ったり、宿題があったりするので十分な休息がとれていないのです。練習が始まるときに喋っていたことに関しては集中を欠いたと反省しています。すみませんでした。」

顧問「自分達が悪いと認めたな、じゃあ俺のいった通りに罰として走れ」

生徒「いえ、我々は間違っていたことを反省し、今後改めると言いました。それでも尚罰を必要とされる程の間違った行為ではないと思います。もしそれでも罰が必要というなら罰を受ける理由、そしてその量を納得できるように説明していただかなければいけません。」

顧問「俺に逆らうと退部にするぞ!!それでもいいのか!!」

生徒「それは脅迫と捉えていいですね、先生は退部という生徒の不利益を盾に自分の主張を押しとおそうとしているわけですよね?自分は筋の通った話をしていると思っています。それにたいして脅迫して黙らせようというやり方は絶対に許せません!twitterFACEBOOKとinstgramで拡散します。」

顧問「むぐぅ、、、、」

「耐える」が習慣化してはいけない

世の中、全ての問題に解決方法があるとは思えないし、少し耐えることで状況が変わることも十分に考えられることである。

しかし、考えることを放棄して安易に「耐える」ことを選んではいけないとは思う。

できれば「解決する」ことを一番に考え、それに少しばかりの時間がかかるのであれば「耐える」ことも大事だと思う。

しかし、世の中にはあまりにも上記の顧問のような人物が横行している。

我々は立ち上がらなければいけないそして自由のため戦わなくてはいけない

自分の為、そして虐げられた優しき人のためにだ

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